今年度の木村伊兵衛賞は浅田政志さんだそうで。まだアサヒカメラの選評を読んでいないので、どういった点が評価されたのかは分からないけれど、う〜ん、どうなんだろう…。前回前々回の受賞者に関しては、批判であれ語り口を設定できるだけの「間隙」があったのですが、浅田さんの作品に関してはそういったものが今のところ見出せないんですよね。良くも悪くも優等生的というか、論争を好まないというか。
追記:もう一度、写真集『浅田家』を読み直してみました。上記の主張に関して、訂正したいと思います。浅田政志さんといえば、コンストラクティッド・フォトのイメージが強かったので、今回の写真集もそれだとばかり思っていました。しかし、読み直してみると、写真集の作りとして右開きと左開きでそれぞれ二つのテーマ(コンストラクティッド・フォトと【擬似】スナップショット)が展開しており、単なるコンストラクティッド・フォトの写真集ではありません。『浅田家』は【擬似】スナップショット*1を取り入れることで、「コンストラクティッド・フォト⇔スナップショット」という対立項を拡張させています。梅佳代さんがスナップショットをコンストラクティッド・フォトのように見せたのに対して、浅田さんはコンストラクティッド・フォトをスナップショットのように見せているというふうに言えるかもしれません。
また、浅田さんの撮る写真は一種の「家族の肖像」として、(浅田さん自身が言うように)「家族の記念写真」*2として見ることも可能です。ただ、彼の主張と写真画像との間には多少ズレがあるようにも感じます。というのも、撮影行為自体は確かに家族総出で行なっていること(被写体も家族だけです)なのですが、実際の写真は選挙の立候補者陣営、水族館員、テレビの中継クルーなど「お仕事」の現場が舞台となっているものが殆どで、ファミリーアルバムのような家族写真と言うには少し無理があるように思います。例えば、浅田家が歩んできた歴史(歩んでたかもしれない歴史、歩むだろう歴史)の各場面を「再撮(撮影)」するというプロジェクトであれば、より家族写真という表現が主張にも写真画像にも符合するのかなと。家族の記念写真という意味では、『浅田家』のスナップショット的な写真のシリーズのほうがうまく機能しているのかもしれません。
この写真集を読むことで、コンストラクティッド・フォト的な写真とスナップショット的な写真をどううまく組み合わせることができるか、その組み合わせにふさわしいテーマは何かということが(写真論・作家論として)重要な問題であると私には感じられました。「記念写真」「スナップショット」の問題もとても興味深いと思いますし、梅佳代さんとの比較もその観点で行なうと面白い問題が出てくるんじゃないかな。

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*1:第28回「ひとつぼ」展の公開審査で、浅田さんは三脚を立ててセルフタイマーで撮影をしていると言っていましたし、写真集の文章でも特に他人に撮影してもらったということは書いていないので、おそらくこのスナップショットもセルフタイマーで撮影されたと見るべきでしょう。→第28回「ひとつぼ」展レポートpdf

*2:「家族の記念写真って、写真の元の姿だと思うんです。家族みんなの記憶に残るような、最高の一枚が撮れたらいいですね」朝日新聞2009年3月11日記事