澄毅(1981年〜)の写真集『空に泳ぐ』(リブロアルテ、2012年)に収められた写真の多くは、非常にシンプルな手法で撮影されている。プリントに穴を空け、その背面から太陽の光を差し込ませる。そうすると、プリントに穿たれた穴から光が漏れ出し、まるで写真自ら発光しているかのように輝きだす。そして、その状態のプリントを「複写」して作品にする。支持体に穴を空ける行為自体は、それほど珍しいものではない。澄とほぼ同世代の志賀理江子も支持体を加工し、そこから漏れだす光の効果を利用している。しかし、澄がわざわざプリントという支持体を選んでいるのには理由があるように思われる。
写真集に寄せた文章のなかで、澄は写真を、(時を)「固定された記録」として捉えている。とりわけ、プリントというメディアにおいては、被写体の時が固定されている一方で、印画紙の経年劣化は進むため、被写体の時が止まっている印象がより鮮明となる。また、「撮った写真をプリントに出す」という行為が一般の人々にとって日常的ではなくなりつつある現在、プリントという存在自体が「過去」とより一層強く結び付きうる。それを示すように、澄は祖父の肖像写真や澄自身の幼少時の家族写真など、時代を感じさせるプリントを写真集にあえて挿入している。澄は、そうした過去を写した写真に陽の光をあて、「今在る存在の手に委ねたい」と願う。この願いの成就はどうであれ、『空に泳ぐ』はプリントというメディアが纏う過去の雰囲気を効果的に利用しようと試みていることは確かであろう。一枚の写真として、とても魅力を感じさせるものもある。
 しかし、一枚写真ではなく写真集全体として考慮したとき、ノイズとなる部分があることにも触れておかねばならないであろう。澄の作品では、顔が「発光」しているものが数多い。その殆どが、名の知れぬ者たちである。写真集に寄せられた飯沢耕太郎の文章から作家の親類が写されていることが分かる写真もあるものの、基本的には匿名である。しかし、例外的にその名の分かる人物が写されている写真がある。その写真とは、車内で新聞の号外を読む二人組の女性を撮ったものである。その新聞の見出しには大きく「金総書記急死」の文字と彼の顔写真。新聞に写る金総書記の顔からは、他の写真と同様に光が溢れだしている。「輝く部分はそこに何が存在しているのか分からなくする。(中略)我々はその輝く部分にどういった顔があったのか自由に想像を働かせる事ができる」と澄自身は述べているが、「金総書記」の文字に彼の顔写真という組み合わせでは、それほど自由には想像力を働かせることはできないように思われる。澄の主張を考えると、なぜ金総書記の顔を輝かせたのか、疑問が残る。