今日やっとこさ東京都現代美術館の「球体関節人形展」を見に行
ってきました。のっけから、ベルメールの写真のスライドがあっ
て、壁一面に人形の写真が映写されると、ああやはりベルメール
はすごいんだなと再確認した。
展覧会に関して言うと、少なくない数の人形に意味の過剰さが見
受けられて、見る側がひいてしまうものがありました。この展覧
会見てふと思ったのは、ベルメール球体関節人形がもし展示さ
れていたら、意味の過剰さでひいていたのかなと。そんな感じも
するけど、そうじゃないかもしれない。でもベルメールは写真に
撮影することによって成功し得たと私は思う。
意味の過剰さという観点で言えば、写真は写っているものの不在
(被写体が今どうなっているかは全くわからない)をも示すもの
であり、過剰さと不在が打ち消しあって、静けさがそこに漂うよ
うに思う(各々の人形作家のポストカードは何か静的な感じがし
ました)。でも、ベルメールは更にそこに、人形とロケーション
という新たな意味の過剰さを持ってきて、色付けしている。
もう一つは写真は生きたものを死んだように、死んだものを生き
たようにみせることもあります。人形を撮影するというのは「人
形という非生物を一旦生物にして、さらに死んだようにする」と
いう風に感じられます。僕は更に、これが「生→死→生→……」
と循環しているように思うのです。このような不安定さが人形と
いう存在に合っているのかもしれません。
ベルメールの写真が今日に至るまで影響力があるのはこういう理
由があるからな気もします。卒論とは関係ない方向で考えてみま
した。あ、でもカルダーノの懸垂装置の説明で「生命と非生命の
間を行き来する」みたいな箇所あった気がする。
追伸
連れが「どうして人形の靴はエナメルばかりなの?」と聞いた
が、答えられなかった。確かにエナメルの靴が多い。一体なぜ?
それは女性、特に少女らしさを象徴している?それとも、ベルメ
ールの影響?ベルメールの人形もエナメルの靴だったかなあ。