前に紹介した
金村修の写真集は平面的であると評したが、
アラーキーのこの写真集はまさに遠近法の極致である。そして、まさにこの遠近法が「死」という物語を写真内部に構造化しているのである。写真集のほぼ冒頭部分に桜の木の下でボートに乗る
カップルの写真とその隣接ページにお墓の写真を配置しているが、これは桜の木の下には死体が埋まっているという物語を明らかに喚起するものであるし、お墓の写真では小さなお墓が二つ並んでいる様が
カップルの寄り添う姿とだぶる。その後に工事中であったり、工事した後の場面を写した写真が何枚か登場する。このあたりは、写真集の構成を誉めるべきかもしれない。しかし、実はこのような(=死を連想するような)読み取りを可能にしているのは完璧な絵画的遠近法なのである。前景・中景・後景を通しで見ることで、ある物語をそこに見出すことができるのである。つまり、遠近法は物語性をすでに内包しているのである。ところどころ出てくるクローズアップの写真やヌードの写真は遠近法を持たない写真であり、それらはある意味持続しない喚起力を持っている。そうした点を結ぶ線として、遠近法を持った写真は死という物語を持続させるのである。
そして、最後の三枚の写真は影が画面の多くを占めていたり、逆光であったりと、遠近法の画面でありながら、クローズアップの写真やヌードの写真のように遠近法のない画面にも近い。こうして、持続するものと一瞬に喚起させるものとの出会いが起こり、ハードウェアとソフトウェアの出会いのように、死という物語がその先へと作動する。