ID400ID400
澤田 知子

青幻舎 2004-04
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澤田知子の写真集。彼女の写真を見たときに頭をよぎったのが、シンディ・シャーマン森村泰昌の作品だった。澤田は証明写真のパロディを行い、森村やシャーマンは美術史のパロディを行なう。しかし、澤田と二人の間には決定的に違う何かがある。それはなにか。先に言ってしまえば「中途半端さ」である。シャーマンにせよ、森村にせよ、美術史をパロディ化するためにあえて不完全さ(見るからに分かる作り物の胸など)を盛り込んでいるが、そうした「ずらし」すら型にしてしまうような、すなわち「不完全さ」を完全にコントロールするような職人的技が両者に感じられてならない。しかし、澤田の作品はどうだろうか。ID400というタイトルが示すように、様々な格好をした400枚の証明写真が延々と続いている。澤田自身がどう思っているかは分からないが、自分の相貌にコンプレックス(例えば、特徴のない顔だとか)を抱き、様々な衣装を着て「違う自分」を見つけようとしているのかもしれない。
しかし、その結果はどうだろうか。彼女の顔は特徴がないように見えて、実はかなりの程度同定できる。そもそも写真において、「特徴のない顔」というのは存在するのだろうか。「特徴のない」という言葉は、「取り立てて言うほどもない」「描写するほどのものではない」あるいは「いまいち思い出せない」といった言葉と互換できよう。そこには、記憶や絵筆による「再現」という行程があり、そうしたものから抜け落ちてしまうものを「特徴のない」ものと指す。彼女の顔は写真において、特徴のないものでは決してないように思われる。それは写真の一つの特質かもしれない。
彼女の写真を「証明写真が結局、証明不可能に陥る」というパロディとして捉える代わりに、ID400と謳っておきながらかなりの程度同定できるその中途半端さを、パロディを好んで行なう現代アートに対する一つの反応としてみることはできないだろうか。証明不可能性を示すだけならば、もっと劇的に変装するなり、いろいろとやりようはあったはずである。それよりも重要なこととして、取り立てて優れた能力も持たない人物が自分のできる範囲で変身を試みたものの、あえなく撃沈した、ということがまさに我々の大多数と重なる部分であるということである。森村やシャーマンは高度な技術を持った従来の芸術家像と重なるが、澤田はそうした芸術家像とは違うところにいるように思われる。「洗練 refinement」を求めない、これは一つの写真の方向性かもしれない。