id:Arata:20051011さんのところで、今回の発表に関するご指摘がありますので、それに答えたいと思います。まず、「detailにこだわる意味」ですが、これはクレーリー言うところの古典的視覚(誤りのない視覚)から生理学的視覚への移行が、写真においては「detail」という「場」において働いているのではないか、そしてその場の揺れ動きに伴って写真は形作られているのではないか、という観点から「detail」にこだわってみました。そして、「detail」という言葉は写真の黎明期から現在に至るまで、制作術から批評に至るまでありとあらゆる場所に出現しては写真を規定しているのですが、その用語自体に対して今まで何ら注目してこなかったのは、写真史における画面中心的(写真画面に何が写っているか、どのように写されているかなど)な分析が支配的であるためであり、それに対する異議も込められています。
第二に、「その言葉の射程」ですが、おっしゃるように、バルトにおける「detail」が製作者という立場ではなく、受容者・鑑賞者の立場で想定されているということもあって、それをどのように処理するかは重要な問題だと思います。それに対しては、バルトが写真家の無意識という点に着目していることが一つの解決の糸口になるのかなと考えています。
id:tatsuya_iさんからもご指摘いただきました。
(メールで頂いた文章を引用しても構わないでしょうか。もしよろしければ文章をコピペして更新します。)
写真のdetail観が「科学的産物から芸術的産物へ」の「単一的」な流れになるのか、あるいは「様々な時代や場所でズレや捻れを起こしながら反復」するのか、という問いですが、まず最初の設問を問題にしたいと思います。「科学的産物から芸術的産物へ」ということですが、クレーリーが生理学といったとき、それは人間の感覚を数値化し予測可能にすることによって、すなわちある種人間を機械化することによって近代化された社会に適応させようという試みの一環(ある意味ではコントロールできないことが露呈してしまったが)としても捉えており、エマソンの生理学受容はある意味では、科学的ともいえるかもしれません。それゆえ、単一的というよりも、19世紀イギリス写真が芸術と科学とが分かち難く結びついて(しまって)いるということのほうが重要だと思われます(例えば、感光板の改良で1851年のものも1871年のものもどちらもイギリス人が行なっています)。
第二の問題ですが、これこそ私が今一番求めていることで、今回の発表を端緒にイギリス以外の国(フランス、アメリカ、ドイツ、日本など)の状況(や他の芸術分野)を調べる研究者が出てくれるのを願っているところです。私自身の意見としては、イギリスにおけるdetail観の「変遷」はやはりイギリス特有のものであると思います。ただ、裏づけが無いので、なんとも言えないのが正直なところです。
発表に関するお二方のご指摘どうもありがとうございました。自分の論文を客観的に見るのに、非常に助かりました。