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蜷川 実花

講談社 2005-11
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蜷川実花の写真集。彼女の写真を見ると、意図的に「深い読み」を回避するような撮り方や並べ方をしているように思われる。自身の写真は、何の批評性も政治性もないとでも言わんばかりに、ありふれた日常をスナップしている。「女の子写真」という表現が一時はやったが(高校や大学の写真サークルでは、女性部員が急増しているらしい。女性がマジョリティになりつつあるのだろうか。)、それは批評性や政治性などを問わず、「楽しければいいじゃん」というようなノリで撮影することを意味していた。
今「女の子写真」という言葉を考え直してみると、その言葉は非常に「男性的」な響きを有している。その響きは、「男の子写真」が批評的、政治的、哲学的な意図で撮られていることを前提としているように感じなくも無い。女の子写真の「軽さ」に対し、男の子写真の「重さ」。こうした印象が、見る我々に全くないとは決して言えないだろう。男の子写真に見られる「重さ」に少し食傷気味になっているときに、女の子写真の軽さを口直しにする、みたいなことがないだろうか。
しかし、女の子写真に批評性、政治性、哲学性がないとどうして言い切れるのだろうか。写真(テーマ)の軽さ重さが、そのまま批評性、政治性、哲学性の軽さ重さになるわけではあるまい。
「女の子写真」とレッテルを貼られたことで、隠されていた批評性、政治性、哲学性を読み取るという作業は、もちろん大事ではあろう。しかし、更に言ってしまえば、そうした批評性、政治性、哲学性が一体誰に(どの人種に?どの性別に?)担わされてきたのかということを、まず自覚しなければならないだろう。
では、以上のことを踏まえた上で、蜷川の写真はどうなのであろうか。彼女の写真によく登場する子供の写真は、いつも傍にいるはずの「大人」が切断されている。大人に保護される子供というよりは、大人を自分の世界から締め出した子供というようなニュアンスが強くなっているように思われる。写真に写っている子供と親、そして撮影者である蜷川実花とその親という対比関係を、なんとなく頭の片隅に置きながら見てしまうのは、やはり行きすぎであろうか。