昨日、京都から帰ってきました。忘れないうちに、発表会について書いておこう。
3月11日(土曜)
1,太田賢佑id:spaceoddity京都精華大学
ジョゼフ・コーネル論−アトリエ、ファイル、箱作品をめぐって−」
タイトルを見ても、何を語ろうとしているのか、いまいち伝わらないかと。タイトルが曖昧なのは、何について書くかがまだはっきり掴めていない証拠だと思います。発表でも、そういう印象を持ちました。
ジョゼフ・コーネルの作品にある「ノスタルジア」を喚起させる要素として、過去の物の流用と玩具的形態を採り上げていましたが、過去の物を流用したからといって、即ノスタルジアを喚起するわけではないと思います。16、17世紀の絵画を見て、我々はノスタルジアを感じるのでしょうか。箱作品内部に使用されているオブジェをもっと丹念に分析する必要があると思います。それと、「ノスタルジア」という用語が、縦横無尽に使用されている感があるので、概念をきっちり限定する必要があるかと。

2,増田展大(神戸大学
「広告の記号論―化粧品広告について」
発表の殆どが、「広告分析史」になってしまっていました。ある思想家の分析方法に対して、別の思想家の方法をぶつけるだけで、発表者自身の意見がほとんど無かったのは、残念です。言説のアッサンブラージュ

3,林田新id:Arata同志社大学大学院)
東松照明写真集「<11時02分>NAGASAKI」を読む」
写真集レビューとの差異をいかにしてつけるか。どうしても作品に始まり、作品に終るという感じになってしまっています(これは、美学と美術史の方法論上の根本的な「違い」になってしまうのでしょうか。)。土門拳の「ヒロシマ」と徹底的に比較することで、写真におけるドキュメンタリーやリアリズムの問題を議論できるのかなと。そうすると、やはり東松のタイトルにある「時刻」が重要な問題になってくるかと思います。

3月12日(日曜)
小泉雅行(神戸大学
1.「レニ・リーフェンシュタールの記録映画分析」
論文というよりは、レポートに近いかと。発表者自身の主張の裏付け(リーフェンシュタール自身のテクストであったり、研究者のテクストであったり。)が乏しいため、説得的な発表にならなかったように感じました。山岳映画というのが当時のドイツで流行したのも、ワンダーフォーゲルの流行と軌を一にしていたのだろうし、アーリア的な肉体の健全性を誇示するものとして、後のナチスにつながるものだと思います(体操映画の流行も)。当時の別の映画との関連を示すことで、多少主張にも厚みが出てくるのではないでしょうか。

2,唄邦弘id:shirime神戸大学大学院)
ジョルジュ・バタイユのアンフォルムについて―雑誌『ドキュマン』を見るということ―」
バタイユにおける「アンフォルム」とは、言説ではなく実践である、という感じでしょうか。というよりも、実践のうちにしか見出せないもの、なのかな。他のシュルレアリスム系の雑誌との比較も見たかったです。ベルメールを分析する私としては、バタイユと「肉体的無意識」との関連が垣間見れたので、役立ちました。

3,中村史子id:akf京都大学大学院)
「クリスチャン・ボルタンスキー《D家のアルバム 1939年ー1964年》をめぐって」
ボルタンスキーといえば、スイス人やユダヤ人の顔写真を使ったインスタレーションで有名で、とかく「死」(そして政治性)と結び付けられることが多いかと思います。今回の「D家のアルバム」を取り上げた発表は、写された対象に「死」を見るのではなく、展示場所や展示方法に「死」を構築する機能があることを示そうとするものであり、それは幾分成功していると思います。
しかし、「映像の不鮮明さ」や「冷たい額縁」などが、因果的に「死」と関連しているような主張には、一歩引いて見るべきではないかと。それは、あくまでメタファーです。不鮮明さや冷たさが「死」を構築(喚起)するようになったのは、あくまで歴史的に、ではないでしょうか。写真のレビューとしては、受け入れることができるとしても、論文ということですと、やはり気になってしまいます。「不鮮明さ→死」の歴史が知りたくなります。

以上、11日12日の発表会を聞いた上で、感じたこと考えたことを書いてみました。発表者本人には話した内容も書いてあるので、重複していると思いますが。自分の発表に関する報告は、また後日書こうかな。