7〜9日と大阪の美学会全国大会に行ってきました。聞いた発表のコメントを忘れないうちに書いておきますか。「良かったよ」とか「面白かった」とかいう誉め言葉は省略しておきます。ちょっと攻撃的にいこうかなと。

・唄邦弘「雑誌『ドキュマン』における理論と実践―ジョルジュ・バタイユの視覚的認識―」
『ドキュマン』におけるイメージとテクストを実例に即して説明して欲しかったかな。「このイメージにはこの文章が付されているが…云々」みたいな感じだともう少し、その乖離と近接が見えてきたかも。
それと、『ドキュマン』のイメージに結構クローズアップが使われているけれど、そのシュルレアリスム的(?)なクローズアップ写真と、ほぼ同時代の新即物主義的なクローズアップ写真との同質性・異質性が出てくれば、「触れる」という問題にもう少し別の視点も取れるのかなと。

森功次「初期サルトルにおける文学の位置づけ―存在論から道徳論へ―」
「状況の伝達」というのが道徳論の要であることは分かったのだけれど、「状況の伝達」と想像力論・存在論との関わりはあまり述べられていなかったような。想像力論・存在論における「状況の伝達」とは何を指しているのか。それと、「本来性」というのが何を指しているのかもちょっと分かりにくかったかも。本来性・全体性と道徳の関係。いろいろとキータームは出てくるのだけれど、それらがどのように結びついているのかが掴みきれてなかったかな。

・渡辺和貴「デリダの西洋形而上学批判と<口>の隠喩」
聾者の問題にもっと着目しても面白かったと思う。全然見通しを立てているわけではないけれど、聾者の聴覚的な「口と耳」と視覚的=言語的な「手話」の関係は考察の一助になったりしないかな。

・城丸美香「ヴァルター・ベンヤミン新即物主義批判―「アウラ」概念からの考察」
ベンヤミンは、新即物主義的写真としてレンガー=パッチュやブロスフェルトの写真について書いているけれど、両者の評価は真逆だったりして、彼の捉える「新即物主義」は必ずしも一般的なものではない可能性があるので、両者の写真を厳密に比較していく作業は必要かと。例えば、ブロスフェルトの写真の取り方なんかは非常に現代の「(商品)カタログ」に近いものがあるように感じる。ベンヤミンの「眼」を考察すると、もう少し新即物主義理解が進むかも。

・岡本源太「写真と指示―その類比についての分析の試み―」
『明るい部屋』に挿入されている写真、あるいは言及されている写真について、もっと詳細に分析する必要があるかと。「温室の写真」は母親の「幼い頃」の写真といわれているが、ここでは二重に注意する必要があって、「幼い頃」とある以上、バルトの「記憶」にはないわけで、「真実性」と絡めるときに問題となることと、その温室の写真が不在である(バルトの「宣言」しかないという事実)ことも考慮に入れる必要がある。
「指示」や「実在」といったとき、具体的に何を指すのかがいまいち不明瞭である。「温室の写真」の場合、何が指示されているのか、何が実在なのか(写真に写っているのは、「女の子」なのか、「母親」なのか、それとも単なる人間か?など)を説明してもらえれば、もう少しはっきりしたかと。

・佐藤由佳子「”大作曲家”の成立―その政治的・文化的コンテクスト」
作曲家伝がどれほど「大作曲家」を成立せしめたかという根本問題は、未だ残されている気がする。「学術的記述」と一言でいっても、実際どのような文体でどのような内容を語っているかは示されていないので、分かり辛い部分がある。作曲家伝というメディアを利用して、大作曲家を作り出す力学にも着目すべきかなと。

・長井悠「録音メディアによる音楽のグローバル化と演奏スタイルの変容」
やはり、録音メディアと装飾音の増減の決定的な因果関係が示されていない感があるかな。確かに、あの地道に調べ上げたデータを使いたい気持は分かるけれど、一度その気持を突き放すことも必要かも。そうすることによって、全く異なるデータの使い方に気付くかもしれないし。

・今岡竜弥「ウィリアム・エグルストンへの一考察―『エグルストンズ・ガイド』を中心に」
エグルストンのカラー性を強調したいのか、エグルストンの構図の特異性を強調したいのか、どっちもなのか、どっちかなのか…。ジョン・シャーカフスキーとエグルストンとカラーの問題は、叩けばいろいろ出てきそう。エグルストン的な写真はホンマタカシとかにも通じそうだし、今の日本の写真と結び付けて語ることも可能だとは思うけどね。まあ、それはまた別の話。