写真新世紀2007@東京都写真美術館
昨日11月3日からスタートした写真新世紀ですが、今回も自分なりのレヴューを会場でメモ書きしていたら、結局3時間以上居たことに…。東松照明展も観るつもりだったのに。
去年と同様、正方形フォーマットで撮影している作品があるかどうかをチェック。合計6名くらい。正方形フォーマットを意識的に使っていそうと思える作品が半分を超えていて、ちょっと嬉しい。その中でも、山口理一さんと比良間さゆりさんの作品は今後に期待できそう。
吉谷慶太「i-source」…写真集的ポートフォリオかと思いきや、実はカタログ的ポートフォリオというスタンスのように思われる。ただ、時折撮影者の名前が印字されたプリントが出てくるのだが、それがちょっと自己主張しすぎているように感じられる。他の画像は画質が粗く、まるでネットの画像から流用、あるいは本から複写したかのような、匿名的な印象(撮影者以外の人物を想定するような)を与えているので、ちょっと不釣合いかなと。
藤田常人「My Models」…ボカシている理由、正方形フォーマットである理由が何であるのかを聞いてみたい。少なくとも私には伝わなかった。ボケたポートレイトで真っ先に思いつくのはクリスチャン・ボルタンスキーだが、彼のような鈍い痛みを喚起するような写真ではなく、色味的にはもっと明るい印象。ボルタンスキーにしろトーマス・ルフにしろ「ボカす」理由ははっきりしている(前者は記憶の薄れ、後者はポルノの「修正」性)。ピクトリアリズム期の写真みたいに、芸術的効果を狙ってのボケでしょうか。そういえば、石塚元太朗さんの写真集にもボケた写真が表紙のものありましたよね。まだ見てないので、何とも言えませんが。
中田柾志「モデルします」…狙いはとても面白いと思うけど、モデルの撮影の仕方があまりにも一般的というか大人しいので、その面白さに気付けなくさせてしまっている。もっと誇張するか、あるいは全く違った撮り方をすれば、単なるモデル撮影ではなく、「モデル撮影を望む女性の撮影」ということを前景化させることができるように思われる。
西澤諭志「絶景」…一見するとトーマス・デマンド的な雰囲気を出しているようでいて、でも実際はより現実の細部を拡大し、誇張することで、「リアルである」と写真に主張させているようである。「写真が何かを訴えている」のではなく、「写真に何かを訴えるよう強制している」。もう少し、デマンドとの対比を説明できればいいのだが。
デマンド―造り物―写真―全てを「リアル」にしてしまう写真の力能によって、造り物がリアルに見えてしまう。しかし完全にリアルに見えてしまうわけではなく、違和感が常につきまとう。何でも「リアル」にしてしまう写真の非選択的な強度(ミニチュアを撮影するときにもあるような)。一方、西澤―現実のもの―写真―デマンドの写真のように造り物がリアルに見えてしまうということがあることを踏まえた上で、「リアルである」と主張するよう写真に強制している。「デマンド以降」という解釈ができるとすれば、こういう主張もありかなと。
ここで使っている「リアル」という表現は「現実的」というよりはむしろ「迫真的」というふうに捉えたほうがいいかもしれない。
比良間さゆり「甘い水」…正方形の写真を横並びに2枚くっつけるというのは、隣り合う2枚の写真の調和と不和以外にも、その次にくるページの写真との関連を探りたくなるような気持にさせる。長方形の写真を2枚くっつけた場合は、どちらかというと隣り合う2枚の写真の調和と不和だけで完結するような気がする。そういう意味で、隣り合う画像だけでなく、ページの前後に重なり合う画像にも意識を向けながら写真の配置を行なうと、正方形写真の一つの特質が浮かび上がってくるかも。今回のブックではあまりページの前後の画像の連鎖は見受けられなかったので、ちょっと残念だったが。
山口理一「2007.5.28 Brooklyn」…作家が「グローバル化する世界で均質化する文化や個人の差異を、写真によって顕在化する試みとしてニューヨーク滞在中に制作した作品」と語っているが、彼の写真にあるようにヌードになっただけで「差異」など出ないと私は思っている。作家の意図がどうかは分からないが、服を着た写真とヌードの写真を対比的に用いていることから、均質的なグローバル化の象徴としての「服」、それに対抗するものとしての「裸の肉体」という図式があるように思われる。しかし、これで差異というなら、グローバル化などは全く関係なく、人間の肉体そのものに多少の個人差があるということだけだろう。あえて肉体で差異を探したいのであれば、グローバル化に抗う(あるいは取り残された)国での戦争あるいは飢餓により負傷・衰退した肉体はまさに私達に「差異」を突きつけてくるだろう。
グローバル化する世界で均質化する文化や個人」の差異を生み出すものは、グローバル化によって変質を蒙りつつ抗う「習慣」にあると私は思う。その点で、山口さんのブックにあった、天井からカメラをさげて被写体にシャッターを押させるという写真群は良い例を出していると思う。被写体とその人が使っている机が写されているのだが、その机の上のあらゆるものの配置が均質化しつつも偏差が見られる。例えば、よく言われることだが、欧米の人々は家のいたるところに家族の写真を貼るが、日本人はあまりそういうことをしない(画家のポストカードなどはよく貼るが)など習慣の違いがある。上記に挙げた2種類の写真のいずれも正方形写真であり、後者は特に机のまわりという限定された場所を撮影する、かつ監視カメラのように撮影するということから正方形フォーマットを積極的に採用する意義があるように思われる。
青山祐企「undercover」…最初見た時は、正方形フォーマットにする意図が良く分からなかったが、たまたま今日アーティストトークがあり、作家本人が正方形フォーマットにした理由を語ってくれたので、一応納得。会場を後にして気付いたのだが、作品の何点かがベルメールの人形写真と類似性を持っているような気がした(押入れみたいなところから足だけ出ている写真や、足だけぶらんと垂れている写真など。フェティシズムとの繋がりもあるだろうし)。多分、ほとんどの人はそう考えたりしないだろうとは思うけど。そっちのほうが正方形フォーマットを説明する際に(私には)分かり易いのかとも思ったり。
黒澤めぐみ「二重性活」…性同一性障害の男性の事実上の「カミングアウト」という社会的効果だけでなく、宮藤官九郎中島哲也蜷川実花が撮る映画のような、色彩のコントラストが非常に強い劇的な写真となっており、ある種の映画的な質も有している。ただ、アイデンティティ・クライシスの問題を物語化することへの是非は当然出てくるように思われる。これがグランプリ作品になるのかなとは思うけど。

他にも安達英莉さんや岡部桃さんなども力のある作家さんだなという印象。特に岡部さんは一昔前の絹目調のプリントを用いて、うまくノスタルジックな雰囲気を出すのに成功している。多くの作家が単に撮りたいものを撮るだけで、その支持体やら枠やらに無関心であるのに対し、この作家はどの支持体が自分の写真の表現に合っているかを考えている。