「映画と写真」no.6

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クリス・マルケル監督の『ラ・ジュテ』(1962)を観る。「映画と写真」を考える際に避けて通ることのできない最初の関門がこの作品であるように思われる。
この映画はほぼ全編スチール写真のみで構成された映画(一箇所、ごく短い動画が挿入されている)である。もともとは映画用カメラで撮った映像を特殊な加工を施すことで、静止画にしている。
第三次世界大戦の影響で、地上に住むことの出来なくなった人間たちは地下で暮らすようになるのだが、そこで或る実験が行われていた。過去へとタイムスリップする実験である。主人公の男性はその実験体として、第三次世界大戦以前の過去へと飛ばされる。そこで或る女性と出会うが…。映画の内容は以上のようなものである。
ドキュメンタリー映画作家の佐藤真(1957年〜2007年)は、映画と写真の決定的な違いを以下のように捉えている。

ロラン・バルトの『明るい部屋』を持ち出すまでもなく、写真は本源的に〈それはかつてあった〉という過去の記憶へとさかのぼる志向をもっている。それに比べると、映画は、〈現在ここにある〉といった現在性へ踏みとどまろうとする志向をもっている。
佐藤真『ドキュメンタリーの修辞学』みすず書房、2006年、139頁。

そして、『ラ・ジュテ』がスチール写真だけで構成されている理由を次のように述べている。

主人公の男がさかのぼることになる過去のパリの街とは、この映画が撮られた1962年時点での〈現在〉のパリの街であるが、これがモーションピクチャーで捉えると、いくらセピア色に彩色を施そうがどうしても現在性が浮き上がってきてしまう。しかし、コマの動きを止め、あえて静止画像の連続を提示することで、〈現在〉のパリの街を映し出していたはずの映像がまぎれもなく過去の記憶のなかにあったパリの街の映像に変貌をとげるのである。
同著、141頁。

佐藤の『ラ・ジュテ』解釈は概ね妥当であるように思われる。過去志向的な写真をベースにすることで、第三次世界大戦以前という過去性を映像が獲得することができるという主張は、非常に納得させられるものである。とはいえ、この映画では複数の過去(少年時代の過去性、タイムスリップの過去性、ヴォイス・オーヴァーの過去性)が錯綜していることは指摘しておく必要がある。押し並べて過去化させる写真の能力に抗して、この複数の過去を整理整頓するのが映画の能力である。
映画の後半で、主人公の男性と女性が博物館を見学しているシーンがある。様々な動物の剥製が所狭しと陳列されているのだが、この「動物の剥製」は、マルケル監督が『ラ・ジュテ』制作のために行った「映画の静止画化」を暗に示しているようにもみてとれる(「動物=映画」「剥製=写真」)。剥製=写真は絶対的な過去(死)を志向する一方で、物質としての剥製=写真は現在性を志向する。ヴォイス・オーヴァーの主は「何を基にして」男性の過去を物語っているのだろうか。その主の目の前に「在る」ものは何だろうか。