「映画と写真」no.7

ぼくを葬る [DVD]ぼくを葬る [DVD]
メルヴィル・プポー

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フランソワ・オゾン監督の『ぼくを葬る』(2005年)を観る。この映画を簡単に解説すると、余命三ヶ月と宣告されたファッション・フォトグラファーでゲイの主人公が恋人や両親、祖母、街で出会った人など大切な人々との様々な(出会いと)別れを通して、自身の死を迎えるという内容である。
今回は主人公がシーン毎に使っているカメラに注目してみていくことにしたい。彼は映画の序盤で屋外での撮影時にMamiya RZ67という中判カメラを携え、モデルを撮影している最中に眩暈を起こして倒れてしまう。主人公がこの場面で使用していたカメラはフィルム一眼レフ用カメラである。
その後シーンが変わり、彼は診察室に入る場面になるのだが、ここでも壁掛けのライトボックスにフィルムのX線写真が挟まれている。遺影写真が消え去る肉体に抗するものだとすれば、このX線写真は主人公に「死」を宣告するものとみることもできる。写真は「生」を演じ続けることも「死」を宣告することもできるのである。
診察室のシーンの後に、病院を出て公園内の道路を歩くシーンに変わるのだが、このとき主人公はコンパクトデジタルカメラで周りの景色を撮影し始める。フィルム用カメラではなく、デジタルカメラで、である。それは物体としての写真ではなく、行為としての写真と言うことができるかもしれない。
更に、主人公はフォトグラファーでありながら、家族の写真を撮ったことがないということが姉の言葉から明かされる。写真の登場以来家族の絆を示す重要な一要素となっている家族写真がここでは否定されている。それを示すように、両親の食卓そばの棚の上には主人公の写った写真だけしかない。
それとは対照的に、主人公と恋人が同居している部屋には写真が貼られていて、2人の親密さを表している。しかし、主人公は病気の発覚後、恋人に辛く当ってしまう。喧嘩した夜、主人公は恋人の寝姿を写真に収めるのだが、このとき用いているカメラは(おそらく)ニコンのフィルム用オート一眼レフカメラで、デジタルカメラではない。
主人公は、恋人と別れた後、祖母に会いに行くため、車で移動する。主人公が自分の余命の短いことを告白したのは、この祖母だけである。家族にも恋人にも、自身の短い命のことを告げることはなかったのである。その祖母の家で、主人公は家族のアルバム写真を眺める。家族の写真を全く撮らない主人公が、父親の若かりし日の写真や、自分の幼い頃の写真を見るのである。主人公の父親とは疎遠になっている祖母、すなわち家族の絆がすでに破綻している祖母のところで家族アルバムを眺めるという行為は、家族の絆の死、家族写真の死、そして己自身の死が幾層にも重なり合っているように思われる。
そして、主人公は祖母との去り際に、彼女の写真をデジタルカメラで撮影する。更に、仲違いをしていた実の姉と電話で仲直りし、姉に気付かれずにデジタルカメラで彼女を撮影する。この映画では、祖母以外に初めて自分に近しい家族を撮影したことになる。ただし、この行為は家族の絆の復活でも、家族写真の復活でもない。それはあくまで隠れて撮影されたものであり、絆ほどの強固なものを形成しないし、家族写真と呼べるほどの親密さもない。
そして、最後に主人公は自身の死に場所として海岸を選ぶ。それはちょうど、オープニングのシーンで、幼い頃の主人公が海に入っていくところから映画が始まっているのと対応している。すなわち、海で始まり、海で終わるのである。主人公は海で一泳ぎをした後、海岸で遊ぶ様々な家族の写真をデジタルカメラで撮影して、彼は永遠の眠りにつくのである。
ここで、映画は終わるのだが、最後のシーンでもやはりデジタルカメラが登場する。このように、度々登場するデジタルカメラは一体何を意味しているのか。そして、死にゆく者が撮影するということは一体何を表しているのか。
まず、今まで考察してきたことを踏まえると、フィルム写真が映画の序盤から立て続けに登場する(Mamiya RZ67で撮影されたファッション写真と診察室のX線写真)が、これらは主人公にとって死を宣告するものとなっている。主人公はMamiya RZ67でファッションモデルを撮影している最中に倒れ、X線写真によって癌であることが発見されるからである。更に、映画の途中で、主人公が寝ている恋人をフィルム用一眼レフカメラで撮影するシーンがあるが、そこでもその恋人のこめかみから血のようなものが滴り落ちてきて、死を連想させている。この映画では、フィルム写真には物質や死といった要素が付されていることが分かる。
一方、デジタルカメラは主人公が死を宣告されてから登場するようになり、序盤では彼の周りの景色を撮影する際に用いられている。ここで注目したいのは、フィルム写真がある種の「物質性」を喚起するのに対し、デジタル写真は物質性というよりはむしろ、「行為」というもののほうに重点が置かれているということである。主人公がデジタルで撮影した人物は祖母と姉であるが、どちらも去り際に撮られたものである。姉に至っては、主人公が隠れて木陰から撮影するという一方的な別れで、お互い顔を合わせてもいない。そして、最後に浜辺に遊びに来ている他人の家族の写真を数枚撮るが、これもまた、家族というものそのものへの別れの挨拶なのかもしれない。この映画において、フィルム写真は何かしら「残す」という意味合いがあるのに対し、デジタル写真はまるで愛する人々に最後の挨拶をするかのような意味合いを持っている。つまり、デジタル写真は、例えばプリントして物質として残すというよりはむしろ、挨拶と同じ行為として受け取られている。
そして、そのことは主人公が「死にゆく者」であるということと密接に関わっている。彼はデジタルカメラで撮影した写真を家族のために残すというようなことは全く考えておらず、ただただ思うに任せて撮っている。従来の映画における写真の言説では、死にゆく者は自身の姿を残す、あるいは自身の生きた証を残された者に託すといったことがしばしばなされていたが、この映画ではそういうものが全くと言っていいほどない。今まで述べてきたところでは挙げてなかったシーンで、自分の全財産を家族ではない第三者に寄贈したり、自身の埋葬方法として火葬を希望したりするところがあったが、それは「残さない」ということがこの映画の中で一つのテーマとなっていることを暗示しているのかもしれない。