隼田大輔『うばたま』私家版、2012年12月
作家の活動履歴及び今回の写真集に関する作家自身の言葉は、以下のサイトに掲載されているようです。
http://camp-fire.jp/projects/view/368
私が『うばたま』を見たときには、作者自身が言うような「過去における、闇夜と人間の関係はどういったものだったんだろうかという疑問」や「夜の暗闇の風景の中で、さまざまな知覚を通して認識した世界を、読者の方々にも追体験していただきたい」という思いは、実のところあまり感じ取れなくて、あくまで「今、闇夜を目の当たりにすると…」という感覚のほうが強くあった。
人工照明に慣れ親しんだ私が完全な闇夜におかれた際に視覚的に感じることは、「何も見えないこと」だけではなくて、「何かに見られていると感じること」もあるように思われる。『うばたま』の写真にも、そうした「何か」の視線を彷彿とさせるものがある。
月明かりだけで撮影しているため、画面は暗く見えづらいのだが、それでも目を凝らして見てみると、中景にあたる部分にピントが合っている写真が多いことに気付く。また、撮影時のカメラの高さも一定ではなく、見上げたアングルの写真もあれば、地面に近い低い位置から撮影された写真もある。こうした特徴を考慮すると、これらの写真から視線のようなものを感じる。だが、その視線は誰のものだろうか。おそらく、人がこの状況にいた場合、暗くて何も見えないはずだ。実際、作家の言葉によれば、30秒ほどの長時間露光で撮影されており、それによって初めて可視化されるものである。では一体、この視線の持ち主は何者なのか。
自分は見えていないのに、「何か」には見られている。その一方的な感覚を恐怖と感じるか、見守られていると感じるかは人それぞれだろう。前者であれば、人はその「何か」を怪物や幽霊と見なしたり、後者であれば、人はその「何か」を神仏や人智を超えた存在と受け取ったりする。視線の持ち主は、見られていると感じる私たちの想像力によって千変万化する。
しかし、実のところ私たちが気にしているのはあくまで「(私が)何かに見られている」ことであって、「何か」がどのように見ているのかなどは全く気にもとめていない。『うばたま』は、私たちが想像で作り出した「何か」の視線を取り込み、かつ脱神話化させてもいる。「何か」が見る光景は、意外にも私たちと似たような見方をしているものだ、というように。