濱浦しゅう『sorane 空音』,Place M,2012年12月


写真集の判型、写真の並び、頁のレイアウト、これらがぴたりと合うことはなかなか難しい。濱浦しゅうの写真集『sorane 空音』をみて、改めてそう感じた。


詩的めいた後書きで「生まれては消えてゆく毎日」や「語ることなく目の前を通り過ぎてゆく、日々」という表現を用いていることから、写真家は儚く過ぎる時の流れのようなものをテーマにしているように思われる。だが、これは詩的表現としては聞き流せても、視覚表現、とりわけ写真に関わるとなると少しひっかかりをおぼえてしまう。


作家の思いとは裏腹に、写真はしばしば「生まれては消えてゆく毎日」をある視点から固定化させ、可視化させる。見過ごされてきた光景の「儚さ」は白日のもとに晒され、使い果たされる。それでも、儚く過ぎる時の流れという現象をテーマとして扱うのであれば、固定化させ可視化させる写真に抗する何かを、手立て=メディアとしなければならない。その中で、スライド・ショーはおそらく有効なメディアのひとつだろう。写真集はどうかというと、まだその可能性を存分に発揮してはいないように思われる(写真集におけるイメージの支持体は紙だけなのか、そのところから疑ってみてもよいのかもしれない)。


今回の『sorane』をみていくことにしよう。『sorane』の1枚目は、波止場なのかロータリーなのかイメージがぼやけているので、場所は判然としない。もちろん、場所がどこであるかなどはさして重要ではないはずだ。作家にとって重要なのは、記憶の縁にかろうじて引っ掛かる日々や、あるいは全く引っ掛かりもしない日々のほうが圧倒的に多いということだ。茫漠とした記憶と茫漠としたイメージとの比喩的な結びつきは強力である。ぼやけた写真をみるときはだいたい、視力が悪い人の視界とは思わない。今回であれば、目の前を通り過ぎた直後、記憶の縁にかろうじて引っ掛かっている消え入りそうな心的イメージと考える。


写真集冒頭の数枚は、写真集全体の作家の意図を推し測る格好の舞台だ。1枚目は割とスムーズに意図が伝わってきたように感じたのに対して、2枚目から4枚目までは、草花越しの光景を写した写真が続き、ここで少しとまどってしまう。「〜越し」の写真は、しばしば写真家の眼差し(志向性)や肉体を感じさせることがあり、生まれては消えてゆく「毎日」よりも、そうした毎日を白日のもとに晒そうとする「私」のほうが主題化されやすい。そのため、写真集冒頭の並びとしては、少しバラけている印象を受けてしまう。


次に写真集の判型をみてみよう。写真集の判型は即、頁のレイアウトに影響を及ぼす。『sorane』は少し縦長の判型で、縦構図の写真や正方形の写真が映えそうなフォーマットに感じられる。それに対して、『sorane』の写真の過半数は横構図の写真で、頁によっては見開きで、片方のページは縦構図、もう片方のページは横構図の写真が配置されている箇所もある。縦構図の写真が余白を少なめになるべく頁いっぱいに掲載されているのに対して、横構図の写真は頁上部に配置して下半分を余白にとっている。そのためか、見開きで縦構図と横構図の写真と並ぶと、サイズ感やレイアウトが気になってしまう。むしろ、縦構図と横構図の写真を見開きで並べなかったほうが、より良い印象を受けたように思われる。