今日は美学会の例会に参加。
田中均 「フリードリヒ・シュレーゲル『ルツィンデ』における恋愛と芸術」
発表内容はそれほど分かり辛い感じではなかったが、『ル
ツィンデ』の中の「男らしさの修行時代」を芸術論として
読む積極的意義というのがいまいち分からなかった(同様
の質問も当日出ていた)。もう一つ、男性芸術家の熟練し
ていく過程が描かれる一方、彼の恋人である女性芸術家の
過程は描かれていない、と主張し、更に女性を限界づける
ような箇所を引用して、「周縁化される女性の芸術創造」
と田中氏は結論づけたが、一つ解せないのは、その引用が
ユリウスという男性の発言をほぼ中心に構成されているこ
とで、ルツィンデの発言の中にはそれとは反発する要素は
本当に全くないのかということである。ユリウスという男
性キャラクターを、短絡的にシュレーゲルに結びつけてい
いのだろうか、そのような読みこそが「女性を周縁化」さ
せているのではないかということである。
今日はもう一人発表していました。
近藤由紀 「ジャン・デュビュッフェ(1901‐1985)初期作品における児童画の役割」
発表内容は省きますが、近藤氏はデュビュッフェの児童画
的作品をダダやシュルレアリスムが好んで使用した「見出
されたオブジェ」の一形態ではないかと主張したが、それ
には異論がある。芸術作品ではない児童画を芸術の世界に
提示するというのは、デュシャンの「泉」の提示の仕方と
似ていなくもない。しかし、デュシャンは芸術作品は自ら
の手で作らねばならないという近代的な芸術概念さえも遺
棄しようとしたし、マン・レイブルトンも「手業」を極
力排してオブジェを提示しているのに対し、デュビュッフ
ェは自らの手で児童画を作成している。依然として、そこ
には近代芸術概念にしっかと掴まっているデュビュッフェ
の姿が見えるのではないだろうか。ところで、「見出され
たオブジェ」という語はデュシャンブルトンらシュルレ
アリストの間ではニュアンスが違うような気がする。デュ
シャンは「泉」を近代芸術概念に向かって汚物として投げ
つけたのに対し、ブルトンは高尚なハイアートとしての近
代芸術に反抗はしているものの、スリッパの形をしたスプ
ーンを美的なものとして賞賛している(だからデュシャン
はダダ的だと言われる)。話を戻すと、デュビュッフェは
デュシャンブルトンの両方の立場に関わっているように
も思われるが、そこは再考する余地があるだろう。