s-showさん、コメントありがとうございます。なるべく早
く応答しますので、しばしお待ちを。
ベルメール→写真→ロザリンド・クラウス→シンディ・シ
ャーマンときて、おぼろげに一つの論点みたいなものが見
えてきた感じが。クラウスがシンディ・シャーマンを評価
するときにベルメールを引き合いに出すが、それは写真と
いうものが「真実・現実をそのまま写す」という類のもの
ではなくなっているということ、そして「決定不可能性」
がそこには存在するということ(これは榊原さんが言って
たような違うような。ちゃんと調べてきます。)があるの
ではないか(クラウスがそう言ってるかはまだ詳しくは読
んでいないので、また後で詳細に書きます。)。この「決
定不可能性」は結構重要で、ベルメールの「相互交換可能
性」にも結びつくように思うのだが。ところで、シンディ・
シャーマンとベルメールの共通性は「男性の欲望を暴
いているのか、その欲望に忠実なのか」という点にあろう。
この二点にほとんど差はないと思う人もいるかもしれ
ない。だが、ダントー言うところの芸術理論という観点に
おいては両者は全く違う。「暴いている」というほうが正
統な芸術として見なされるかもしれないが、一方「忠実で
ある」というほうは下世話で悪趣味でキッチュで芸術とは
見なされないかもしれない。ベルメールが写真家(として
より人形作家)ではなく、シンディ・シャーマンが写真家
であるという境がもしかしたらここにあるのではないか。
芸術理論の話はまた今度にするとして、ベルメールの写真
ということで、彼の著作を写真論として読んでみようと思
う。多分、まだ誰もこの試みはしてないのではないだろう
か。できれば、若手フォーラムで発表したいなあ。