トーク「ジョナサン・クレーリ−『観察者の系譜』をめぐって」
@photographers' gallery
ゲスト:遠藤知巳
『観察者の系譜』の訳者による講演会が2/20にありました。そこでの会話はちょっと書くのが大変なので、その会話を聞いた上で、クレーリーの著作に対して言えることを書こうかなと。
クレーリーの著作で一番問題となっているのは「写真の回避」であるが、それを考察する前にクレーリーの議論の前提を提示したい。クレーリー以前は、カメラ・オブスキュラを写真機の前史として扱っているが、それは構造のアナロジー(単眼、鏡による反射)によるものである。一方、クレーリーはそうした構造のアナロジーに対して、「目では判別できない違い」すなわち視覚モデルの違いをカメラ・オブスキュラと写真機との間に置く。つまり、カメラ・オブスキュラと写真機は構造上似ているかもしれないが、両者は全く違う理論体系の上に成り立っているのである。こうした理論でクレーリーの主張は続いていっているのだが、いざ写真機に関して述べた数少ない箇所では、写真機がカメラ・オブスキュラの「幻想」を呼び起こすものとして扱っており、構造のアナロジーがそのまま踏襲されてしまっている。もし、クレーリーの議論をその著作の中で修正するならば、写真機を19世紀以降に出現する視覚器具(ステレオスコープ、ズートロープなど)と同列に並べてしまったほうがよかったのではないかと思う。「歴史は二度繰り返す」が、それは一度目と全く同じではない。全く同じようにしか見えないが、両者は全く違う理論に属しているのである。こう修正した上で、クレーリーの写真観を再度批評していくことが重要なのではないかと思う。