いよいよ、photographers' gallery講座が始まります。以下、本文引用。

photographers' gallery は過去さまざまなトークショーやレクチャーを開催してきました。こうした多様な言葉の断片をひとつの流れとしてつなげていければと考えています。ここでは講師の方々を写真に限定せず、さまざまな分野からお呼びして出来るだけ外側から写真について語っていただきます。レクチャーの内容を深めるために、講師と参加者との率直な対話も重要となってくるでしょう。この講座の向かう先はまだ見えません。しかし、あえて長期的なプログラムは組まず、むしろ偶発的な出会いや突発的な事件によって柔軟に転回してゆくことを期待しています。
 「写真については語れない」といわれつつも、現在も写真を取り巻く言説はやむことがありません。変容を迫られたメディアへの不安にかられて、さらに脅迫的に量産されているようにも見えます。しかし、デジタル化する未来への数奇な語りや、歴史の細部に拘泥した写真への言祝ぎは、ときとして巧妙に現在を迂回する手立てになっているのではないでしょうか。私たちは「衰退期のメディアとしての写真」という認識に立って、ふたたび現在/写真を発明するためにこの講座を開始します。背中ごしに伝わる断崖の不安にさいなまれつつ、過去を見つめながら後ろ向きで前進する「歴史の天使」のごとく。 

斎数賢一郎

すでに、第1回第2回の日程は決まっています。その後の講師陣の名前も挙がっていますので、チェックしてみてください。
http://www.pg-web.net/home/pg_lecture/index.html

第1回 2006年9月24日(日)16:00〜

「アジェ/バリケード/ゴダ−ル」
 講師:岡村民夫(表象文化論・法政大学教授)
司会:斎数賢一郎

受講料:1,000円 定員25名

ウジェーヌ・アジェが19世紀末から20世紀末にかけて撮影した界隈の多くは、かつてのパリの市壁や市門と不思議なほど重なる。1959年、ジャン=リュック・ゴダ−ルは、デビュー作の主人公をカンパーニュ・プルミエール街の写真スタジオに追いつめ、路上で殺したが、事件現場はアジェが1899年以来亡くなるまで住んだアパルトマンの前であったばかりか、18世紀から19世紀半ばにかけて存在した市門のそばだった。68年5月、学生たちはカルチエ・ラタンにバリケードを築くことによって、パリ最古の13世紀の市壁をそうとは知らずに復元していた。そのとき傍らに小さなカメラを構えたゴダ−ルが立っていたのは、出来すぎた話なのだ。水平な流れを堰止められた歴史は、因果律を越え、「布置=星座(コンステラツィオーン)」(ヴァルター・ベンヤミン)として垂直に結晶する。写真とは、バリケードに似ているのだろうか。

岡村民夫

http://www.pg-web.net/home/pg_lecture/2006/01okamura.html

第2回 2006年9月30日(土)18:00〜 

「写真のなかの幽霊」
 講師:前川修(写真論・神戸大学助教授)
司会:斎数賢一郎

受講料:1,000円 定員25名

心霊写真は怖い。

「怖さ」の理由は、写真の向こうの幽霊にあるのだろうか? 霊の因縁の物語にあるのだろうか? 霊が「祟る」からなのか、「呪う」からなのか? 心霊写真について「かたる」と、ひとは、一方で期待に目を輝かせ、他方でいぶかしい視線をこちらに投げかける。なかには私は見えるというひとまでいる。霊は「ある」と言い張るひともいれば、霊は「ない」と言うひともいる。

しかし、心霊写真の怖さは実はそうしたところにはない。心霊写真のかたりにおいて見逃されているのは、イメージの薄膜にはさまった幽霊という半透明な存在である。心霊写真の歴史を辿れば分かるように、心霊写真を見るということは、写真というイメージを通じて「見る」ことと「ある」ことのつながりを危うくし、見ることに支えられた現実の存在の不確かな縁に足を踏み出す実践でもあった。このレクチャーでは、心霊写真の系譜をその起源から現在までたどりながら、心霊写真論は写真論であるということを話してみたい。

前川修

http://www.pg-web.net/home/pg_lecture/2006/02maekawa.html

前川(id:photographology)さんの講演会の運営にほんのちょこっと関わっていたので、実現できて非常に嬉しいです。この講演会に是非、皆様お越しくださるよう宜しくお願いします。私も当日、会場に行く予定です。