第9回photographers' gallery講座聞いてきました。

(以上は、配布されたレジュメの見出しに従って、書き写したものである。)
まず、初めに「ミニマリズム」と「コンセプチュアル・アート」とを分かつ、よくありふれた主張というのを取り上げる。それは、ミニマリズム(特に立体作品)が鑑賞者と作品の物質的特徴(大きさであったり、色彩であったり)との相応関係を問題にするのに対し(すなわち、鑑賞者が望むと望まざるとに関わらず、ミニマリズムの作品を前にして、その作品の周りをうろつかなければならない)、コンセプチュアルアートはアイデアが主たるものであって、作品の物質性は二次的なものでしかないという主張である。しかし、これはコンセプチュアル・アートをかなり狭義に捉えている。そもそも、コンセプトとは一体何であるのかということも実は、今まであまり深く議論されてこなかった。このような学術的状況を踏まえた上で、講師の林道郎さんは、コンセプチュアル・アートの「コンセプト」を捉える概念として「インストラクション(「〜せよ」という命令)」に注目する。
これが、講座全体のおおまかな意図みたいなもので、そこにおいて写真がいかなる役割を果たしているのかを論じようとしている。彼自身は、写真は「インストラクション」の重要な要素を成していると考えている(単なる「証拠」写真というだけでは決してないことが重要)。
全体をまとめるのは面倒なので、ここら辺で止めておくとして(すみません)。いくつか気になる点があったので、その指摘を。全体的に、レトリックで逃げている気がする。まあ、論文ではなく講座なので、その辺は多少甘くみてもいいのかもしれないけど。
①「インストラクション」という語があまりに区別無く用いられている:「〜せよ」という命令は、誰(あるいは何)が発して誰が受け取るのか。講座の中では、鑑賞者が従う場合以外にも、作者がある種の「縛り」を自身に施して作品を制作することも、「インストラクション」の一様態であるかのように捉えていた節があった。
②「コンセプチュアル・アートと写真」の関係がいまいち分かり辛い:単なる証拠写真ではなく、写真に収めることで初めてコンセプトが達成されるような作品もあると述べていたが、そういった個別具体的な事例だけでなく、コンセプチュアル・アートという表現形式と写真との「特異」な関係性も論じて欲しい。そこで、私が注目したいのは、(しつこいけれど)コンセプチュアル・アートにおける正方形写真である。今回、スライドに出ていた写真にも、決して少なくない数の正方形写真があって、単なる気まぐれや偶然では見過ごすことのできない重要な一要素になっていると私は考えている。
③これは批判というよりはむしろ、思ったこと程度のことなのだが、ミニマリズムにおける反復やコンセプチュアル・アートにおける数学的無限のことを考えたとき、スティーグリッツの「equivalent」シリーズが俄然興味深いものに思えてきた。20世紀前半のことであるから、ミニマリズムコンセプチュアル・アートかという話にはならないのではあるが(両方とも1960年代辺りからのものである)、実はミニマリズムコンセプチュアル・アートのまさにグレーゾーンに位置しているんじゃないかという印象もあったりする。あくまで印象の域を出ないが。
⑤(補足)ベッヒャーをコンセプチュアル・アートの文脈で捉えるっていうのは、比較的常識的なことなのかな。ブロスフェルトのような新即物主義的な写真の影響を濃厚に受け継いでいることは写真見ても分かるけど、そしたら新即物主義(物質)とコンセプチュアル・アート(概念)は重なるってこと?林さんの意図が、コンセプチュアル・アートにはアイデア至上だけではなく物質的特徴も大いにあるということであれば、まあ考えなくもないけど、そういう感じの流れでも無かったような…。「新即物主義的写真」というコンセプト。これなら、何でも言えてしまう。林さん自身が最も抜け出したいと考えていた、コンセプチュアル・アートの罠に結局はまりこんでしまったとも言えるのかもしれない。



「不確定地帯――コンセプチュアル・アートと写真」は全5回を予定していて、第2回目はメル・ボックナー(Mel Bochner)を扱うことで決定しているが、第3回目以降はまだ未定らしい。それでも、候補は幾つか挙げていて
①John Baldessari
②On Kawara
③Jan Dibbets
④Douglas Huebler
⑤Seth Siegelaub
の中から選ばれる可能性が高い。