10月6日、7日、8日に北海道大学で行なわれた美学会全国大会も無事終了し、昨日東京に帰ってきました。私は7日に「絵画的視覚から生理学的視覚へ―ピクトリアリズム期写真論の展開―」というタイトルで発表。
発表要旨は以下のサイトで見られます。
http://www.hucc.hokudai.ac.jp/~m16095/homepage/bigakukai07/kenkyu.html
発表を聞いて思ったこといくつか。
太田純貴さんの「ドゥルーズの感覚論―<haptique>という概念を中心に―」ですが、やはりテクストを拠り所とする以上、ちゃんと引用するのが筋。「haptique」が他の単語とどのように並び合って一つの文を構成しているのか、そして発表者がどれほど文字通りに(あるいは創造的に)その単語を読み取っているのか、その判断材料は聞き手に対して常に与えられていなければいけないと思います。
林田新さんの「長崎の皮膚―東松照明の『<11時02分>NAGASAKI』を読む―」ですが、類似性を指摘する際に、見開きが一つの単位になっていましたが、写真集を「めくる」という行為を考えてみると、次のページの画像も考察に含めるべきではないでしょうか。p.2とp.3が見開きである場合、写真集をめくる際p.3とp.5の両方の画像が目に入ってくることがあります。p.2とp.3、p.4とp.5、p.6とp.7…というような見開きで区切りをしてしまうと、写真集の特質が失われてしまうような気がします。類似性(p.2とp.3、p.4とp.5)と差異(p.3とp.5)がめまぐるしく変化するのが写真集の特異な部分なのかもしれません。(補足:もちろんp.3とp.5との間の類似性が存在するという立場も十分あり得ます。そうなれば、ますます写真集の特質として前景化させることができるかもしれません。p.1〜p.5とページの順番通りには見ていないという「主体の自由さ」も確保できることで、質疑応答にあった反論にも対処できるのではないでしょうか。)