昨日が最終日だったので、写美の森村泰昌展「なにものかへのレクイエム―戦場の頂上の芸術―」を観に行く。森村さんにとって報道写真は全て「同じもの」なのかなという印象を持った。アインシュタインのポートレイトも強制収容所解放後に密告者を厳しく責め立てる女性の写真もベトナム戦争での処刑の写真も等しく「素材としての写真」であり、倫理的な葛藤など起こるべくもない、というように。消費され尽くした写真には何の容赦もいらない、というように。
密告者を責め立てる女性の写真を基にした森村さんの写真では、訴える女性、訴えられた女性、記録をとる男性の三人が森村さんによって演じられている。この写真の中途半端さは、「なぜこの三人なのか」ということである。同胞が同胞を密告したというのであれば、森村さんが一人二役(訴える女性、訴えられた女性)をすることには意味があるかもしれない。更に記録をとる男性も同胞であるならば、一人三役することも意味があるかもしれない(実際にこの三人が同じ国に生まれたかどうかは私は知らない)。しかし、だとすれば、このやりとりを眺める大勢の人々もまた彼ら彼女らの「同胞」なのではないのか。その人物たちに扮しない積極的な理由でもあるのか。
ロベール・ドアノーの有名なキスシーンの写真を基にした森村さんの写真にも、意図を測りかねる小細工が仕掛けられている。キスをする男女(森村扮する)のそばの地面に「SEPT.11.2001」(アメリ同時多発テロのあった日)と書かれた紙、その男女の左側にいる水兵たち(森村扮する)の手のなかに「DEC.8.1941」(真珠湾攻撃の日)「AUG.6.1945」(広島原爆の日)「AUG.9.1945」(長崎原爆の日)と書かれたプラカード。この年月日の表記は真珠湾攻撃→原爆→同時多発テロの因果性を暗示しているのだろうか。だとすれば、それは何の「因果性」なのか。はっきりしない。また、この作品タイトルは「記憶のパレード」となっているが、たった四つの記憶しかないのか。なぜ、記憶がこの四つなのか。はっきりしない。
映像作品「海の幸:戦場の頂上の旗」の「海の幸」はもちろん、青木繁の『海の幸』。あの絵のような光景が最後のほうに出てきます。