「映画と写真」no.1

殺人カメラ [DVD]殺人カメラ [DVD]
ロベルト・ロッセリーニ

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ロベルト・ロッセリーニ監督の『殺人カメラ』(1952)を観る。カメラと死の関係は写真黎明期からあって、カメラに撮影されると魂が抜かれる=死ぬといって怖がられたこともあったようで。ただ、『殺人カメラ』では少し凝った演出がされている。第一に、人を直接撮影することで死ぬわけではなく、「再」撮影することで死ぬという演出。主人公は町の写真師で、街中の人の写真をアルバムに入れている。殺したい人がいれば、そのアルバムから当人の写真を取り出し、再度撮影することで、写された人は死ぬ。第二に、写された人の死に方が特異で、写真に写っているポーズで死ぬという演出。例えば、笑顔でピースの写真であれば、笑顔でピースしたまま死ぬことになる。
「再撮影」と「ポーズ」。「撮影ではなく再撮影である」ことが意味するのは、ひとつには犯行の容易さであり、これは映画のストーリー上の制約である。直接撮影の場合は他人に見られる危険があるが、プリントを再撮影するだけであれば、誰にも見られずに行うことができる。その分、犯行の数を多くすることも可能だ。もうひとつは、アルバムという記憶のアーカイブの破壊である。主人公が写真師として作りあげてきた町民のアーカイブは殺人カメラの登場により、見るも無残な姿にされてしまっている。数枚の写真が、貼られていたページから剥がされ(あるいは挟んであるページから抜き取られ)、今度は壁に貼られ再撮影される。写真のその後の行方は分からないが、殺したいと思った人物の写真をアルバムのもとの場所に戻すとは考えにくい。写された人物はこの世からもアーカイブからも「排除」されるのである。しかし、注意すべき点がある。それは主人公が「直接」撮った被写体の存在である。(警官殺害のあとロバを直接撮影したが、それは除くとして)映画の後半に「この町で最も貧しい者三名」のポートレイト写真を撮影するシーンがあるが、これは記憶のアーカイブのなかに貧者の写真が今まで含まれていなかったことを示している。三名はずっと何か歌い続けていたり、動き回っていたりとおよそ撮影のマナーを心得ていないことからもそれが分かる。アーカイブの破壊とアーカイブの不完全さが、この映画において同時に表されているように思われる。
「ポーズ」への注目は19世紀から続くポートレイト写真の誇張的な振る舞い(親子二代で写真師だと言う主人公の発言)をパロディ化させるとともに、現実とイメージの逆転を示してもいる。再撮影された瞬間にイメージのほうが優先され、それ以前にどんなポーズをとっていようと強制的に写真に写っているポーズにされてしまう。それはまるでダゲレオタイプ発明当初にあった左右反転画像のときと似ている。その当時は写しだされる画像が左右反転してしまうので、衣装を着る際には普段とは逆の仕方で着る必要があった。例えば、男性の着物の場合、左前が基本だが、写るときには右前にして左右反転に備えなければならなかったのである(ダゲレオタイプはダイレクトプロセスなので、ネガポジプロセスのようにネガを裏返しにして正像を得ることはできない)。ここにおいて、現実はイメージに合わせて自らを変容させている。すなわち、イメージのほうが現実よりも優先されているのである。