「映画と写真」no.2

欲望 [DVD]欲望 [DVD]
ミケランジェロ・アントニオーニ

ワーナー・ホーム・ビデオ 2010-04-21
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ミケランジェロ・アントニオーニ監督の『欲望』(1966)を観る。原題は写真用語で引き伸ばしという意味の『BLOW-UP』。主人公の男性は人気のあるファッション・フォトグラファー。彼はファッション写真のかたわら、場末の安宿に泊まるなどして人々の日常の生活を撮影し、それを自分の作品として売り込もうとしている。「事件」が起きるのも、まさに「もうひとつの仕事」をしている時である。主人公はのどかな風景を撮ろうと公園に行ったが、そこで男女の逢引きを目撃し、こっそり隠し撮りを続ける。しかし、女性に気付かれ写真を渡して欲しいと懇願される。その必死さに何かを感じとった主人公は女性に別のネガを渡し、その場をやりすごす。公園で撮ったネガを現像しプリントしてみると、女性の仕草に不自然なところがあるのに気付く。その原因を探るべく、写真をどんどん「引き伸ばし」ていく。すると、男女以外に銃を携え木陰に隠れている人物の姿が。そして、そのすぐ後に撮った写真には、木に隠れてほとんど見えないが芝生に横たわる男性らしき姿が。主人公はことの真相を確かめるべく、公園に向かうとそこには死体が…。
これが、この映画の大まかな内容である。写真にこだわってみていくと、いくつか興味深い点を挙げることができる。
第一:ファッション写真と(アートとしての)ジャーナリスティックな写真の区別。
第二:(第一と関わるが、)コンストラクティッドフォトとスナップショットの対比。
第三:引き伸ばされたプルーフ
第四:見えるものと見えないものと聞こえるもの。
第一の点に関して。先にも述べたように、主人公は二つの顔を持っていて、一つは人気ファッション・フォトグラファー、もう一つはまだ殆ど誰にも知られていないアート系ドキュメンタリーの写真家としての顔である。「アート系」と付けたのは、彼があくまで「自己表現」としてジャーナリスティックな写真を撮影しようとしているからである。殺人現場を撮影したことを警察に知らせていないことからもそれは明らかであろう。
第二の点に関して。第一の点と重なるが、ファッション写真=作り込み・虚構とスナップショット=真実を対比させている。もちろん、スナップショットが明かす真実は真実の一部であって、全部ではない。そして、複数のスナップショットがあったとき、人はそれらを並べて一つの真実を構築(construct)する。両者を対比させつつも、その対立は本質的なものなのかを問うているようだ。
第三の点に関して。主人公が公園のネガから数枚のプルーフをプリントし、そのプルーフを基に細部を検討し、更に引き伸ばしたプルーフを制作する。しかし、主人公が家を少し留守にしていた間に、一枚を除いてすべてのプルーフが何者かによって盗まれる。このシーンは、主人公にとってproof(試し刷り)であったものが、別の者にとってはproof(証拠)であったことを示している。そして、盗まれたことによって初めて、主人公はそれが唯一のproof(証拠)であったことを痛感する。一枚だけ残ったproof(試し刷り)はproof(証拠)ではないということなのだろうか。その写真に関する主人公の妻の発言が印象的(「ビル[=妻の浮気相手]の絵[=抽象絵画]に似ている」)。
第四の点に関して。夜見に行ったときにはあった死体が、朝見に行くと無い。死体という「見えるもの」と「見えないもの」。そして、映画の最後のシーンでパントマイムの集団がマイムでテニスのゲームをするのだが、主人公はだんだんとそのゲームを目で追うようになり、最後には「柵を越えたボールを投げ返し」までする。ここにも、テニスゲームという「見えるもの」と「見えないもの」。投げ返したボールでまたゲームに興じるマイムの集団。すると、ラケットでボールを打つ音がし始める(画面は主人公のみを映している)。ボールという「見えないもの」と「聞こえるもの」。ボールを打つ音が聞こえていたとき、主人公の目には何が「見えて」いたのだろうか。