「映画と写真」no.5

キートン「海底王キートン」/「キートンのカメラマン」 [DVD]キートン「海底王キートン」/「キートンのカメラマン」 [DVD]

アイ・ヴィ・シー 2001-09-22
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エドワード・セジウィック監督の『キートンのカメラマン』(1928)を観る。
映画のオープニング、キートンはティンタイプの肖像写真家として登場する。報道写真のカメラマンではなく、肖像写真のカメラマンとして登場するところが重要である。キートンはこのあとニュース映画のカメラマンになるわけであるが、写真と映画を際立ったかたちで対比するためには、肖像写真というジャンルが不可欠であったのである。
というのも、(肖像)写真と映画の違いは画像としての静止画/動画であるとともに、被写体の状態としての静止/運動でもある。さらに言えば、写真家とカメラマンの動きにも静止/運動の違いがある(三重の「静止」)。その意味で、キートンが報道写真家として登場してしまうと、画像の違い(報道写真=静止画、ニュース映画=動画)はあるものの、被写体の違いを出すことができなくなってしまう(加えて、報道写真家もニュース映画のカメラマンも撮影のために活発に動いている点で似通っている)。報道写真の被写体は概して動いており、報道写真家はその動きのなかに、その動きの結果に様々な意味を読み込もう、付与しようとするのである。
さらに、商売としての写真と映画の違いも描かれている。肖像写真としてのティンタイプは、20世紀初頭以降は斜陽の産業となっていた。その一方で、ニュース映画は、まさに20世紀の雄として華々しい活躍を遂げていた。それは、キートンのカメラの三脚があまりにも貧弱すぎて、撮影がままならない状態になるシーンに象徴的に表されている。あるいは、ニュース映画のカメラマンが暗に侮蔑の意を込めて、キートンのティンタイプのカメラを「カクテルシェイカー」と称したことにもみてとれる。
映画の後半部で、猿がニュース映画用カメラのクランクを回して撮影するというシーンがあるのだが、これは意味深長である。映画のオチとして利いていることは確かなのだが、それだけではなく「猿でも撮れる」ほどに技術が簡便化されていること、被写体と言葉でコミュニケーションをとる必要もなく一方的に撮影されていることが暗に示されており、ニュース映画へのちょっとした皮肉にもなっているようにみえる。
写真が重要な役割を演じているものとしては、『悪太郎 The Goat』(1921)もある。殺人鬼の顔写真(ある意味では肖像写真とも言える)を撮影する際に、間違ってキートンの顔が撮影されてしまい、さらにその殺人鬼が脱獄したせいで、キートンの顔写真が新聞や街角の壁面に大々的に掲載されてしまう。ここでは、キートンは被写体の側に立っている。