志賀理江子「螺旋海岸」@仙台メディアテーク 2012年1月13日
展示を観たときのメモ

・床には黒色のチョークのような素材で、(1)から(9)までの番号と螺旋状の弧、そして会場のほぼ中央で直角に交差する2本の直線が引かれていた。前者の番号はフリーハンド、後者の線はおそらく補助器を用いて引かれており、手ブレのないきれいな線を描いている。2本の直線の先には(5)さようならの写真があり、これは会場で配られた案内図と一致する。フリーハンドの数字も弧・直線も、ある種の「未完成」「未決定」をほのめかしているように思える。それは、ベニヤ板への写真の貼り付け方にも。

・ヨーロッパの教会のステンドグラスのように端から順を追って読解する形式ではなく、曼荼羅のような感じ?

・(2)私、私、私の写真は、中年の男性が笹の茂る場所で、両手に白い団子状のものを持ちながら立っている写真。ほぼ同じ写真が3枚あり、同一写真の複写のようにもみえるが、男性の右手の親指にかかる笹の葉の位置を見ると若干違うように思う。(1)遺影の写真を取り囲む3枚の私、私、私。

・螺旋状に配置された写真(ベニヤの立看板)は、基本的に部屋の中心に向けて(=内側に向けて)置かれている。しかし、何枚かは例外的に外側に向けられている。そのなかに、内側に向けられた写真と対面して置かれた写真がある。その一組が、内側に向けられた(2)私、私、私と、その対面に位置し外側に向けられた(1)遺影である。別の一組は、以下のものである。大量の小石が転がる砂利道を真上から撮影したカットの下方に、撮影者の左足らしきものが写り込んだ写真(6)。この写真は外側に向けられており、その対面は真っ黒な写真(9)である。

・今回の展示では、写真をベニヤ板に完全に貼り付けているわけではなく、端の部分はめくれている。そのため、(1)遺影と(2)私、私、私が対面になっている場所では、(1)の「たわみ」によって、(2)の男性の手の部分が複数化されて(1)に写り込んでいる。私、私、私の増殖?

・縦長で巨大な写真(石を写した写真が多い)を見たときに、ふと石碑を思い出した。石碑には墓碑もあれば、その土地の過去の歴史を示す記念碑もある。石碑を探し当てるように、観者はふらふらと歩きまわる。

・知らず知らずのうちに、観者は大地に線を引いていた人たちと同じような動きをしている。立ったり、しゃがんだりしながら弧を描く。

・陽が落ち室内が暗くなると、フラッシュを焚いた写真に見られる反射光が目立つようになる。白く塗られた石の白さも目立つ(会場の天井が思ったよりも高くなく、ライトが強く当たるからか?)。とりわけブラインドの無い定禅寺通り側の窓ガラスそばに置かれた石の写真は、その白さが際立っている。日中は石の写真がやけに多いなというくらいの印象。路傍の石。しかし、夜になると一変。石の写真が輝いているかのよう。石の写真は定禅寺通り側に偏って配置されていたように感じる。