>s-showさん
私もs-showさんの意見に同意です。ヘテロセクシャルな側
からのヘルマフロディティズムへの志向を中心にしている
ことを鑑みると、ベルメールは(理論を忠実に芸術で再現
するというような、理論ありきの)理論家ではないという
ことがあると思います。ゴルセンはどちらかというと理論
ベルメールを全面に押し出しているようですが、理論家
を即芸術家(としてのベルメール)に一致させてよいもの
かどうか。ゴルセンは一旦はベルメールのトランスジェン
ダー性を認めていて、そこに「欠陥」を見出している感じ
ですよね。
ゴルセンやSue Taylorにおいて、不満に感じるところは私
も同じで、私はそれがベルメールのテクストの軽視(ほと
んど無視に近いような)にあると思います。写真集の各序
文、『イマージュの解剖学』を読めば、後半になるにつれ
て、サド・マゾヒスティック性・暴力性・倒錯性等々とい
うのは後景に退き、肉体性・言語性・イマージュ性といっ
たものが前面に出てくるのは認められるはずなのに。ただ
写真とテクストを直接的に結びつけて、解釈を一義的なも
のとして、固定し得るものとして見る見方もまたゴルセン
やSue Taylorの立場と性質が変わらないようにも思われま
す。作品(ここでは写真)というものがベルメールと私た
ちの間に媒介者として存在する以上、コミュニケーション
は透明でいられるのかという問題があります(芸術的コミ
ュニケーションの問題と写真の問題をもっとちゃんと考察
してから、再度この部分は書き直します)。ここの問題は
ベルメールの写真のみで解決できるレベルを超えて、芸術
や写真の在り方をも考察の対象に入れねばならないように
思います。
最後のほうは、主張が脱線かつ尻すぼみになってしまい、
すみません。それから、ベルメールが自身の写真について
コメントしている箇所は貴重な彼の写真観を示していて参
考になります。著作にはほとんど彼の写真観は出ていなか
ったので。
かなり頭が混乱してます笑。s-showさんと会話がかみ合って
いない部分もあると思いますが、ご勘弁を笑。今、写真
を大枠で考えているのですが、そういう状態ですと、なか
なか「この写真は〜だ」という言い方がしづらくて。