BunMay2004-11-27

写真は富士山を撮影したものです。
kasuho
よろしくお願いします。全部終わるのは2月中旬くらいか
な。それくらいにまた詳細を話し合いましょう。
昨日の発表は19世紀の写真観としてパースを、20世紀の写
真観としてバルトを取り上げ、両者を写真史に即しながら
比較検討するという内容でした。19世紀の写真が科学技術
的な関心、または写真クラブ内での交換、カルト・ド・ヴ
ィジットの収集が主だったのに対し、20世紀の写真は新聞
写真の登場が大きく、「写真を読む」という行為が20世紀
以降重要になってくる、という主張を前半でし、後半では
実は写真を読むという行為が新聞写真より少し前のスナッ
プショットにその起源を見出せるのではないか、そしてそ
れはスナップショット的な視覚(意図しない細部への注目
等)を形成して我々はそれを習慣化しているのではないか
と主張しました。そうしたスナップショット的な視覚がバ
ルトの新聞写真の読み取りの前提条件としてあったのでは
ないか、慣習化されたスナップショット的な視覚が『明る
い部屋』内で何度も登場する意図しない細部としてのプン
クトゥムの背景にあるのではないか、そうであるならば、
「文化を抜きにして、野生の状態でいたい」といったバル
トの態度は実は野生の状態ではなかったと言えるのではな
いかということを最後に述べて終わりました。
質疑応答で問題となったのは、当然「スナップショット的
な視覚」が本当に意図しない細部への注目の引き金となっ
たのかということでした。写真の始まりからそもそも意図
しない細部に注目するということ(タルボットの『自然の
鉛筆』)はあったのではないかと。タルボットの文章をま
だ読んでいないので、その場では即答できなかったのです
が、19世紀における「細部」と20世紀以降の「細部」の使
い方・内実は本当に全く同じなのかという考察が必要だと
思いました。細部といっても写真の忠実性を述べる上で指
摘されているならば、それは意図しない細部とはまた違っ
た細部ということになると思います。今後の方針としては、
スナップショットにおける「意図しない細部」がどのように
言説化されていったのかを調べていければと考えています。