>s-showさん
s-showさんが両性具有について「幻想的」「static」と言
われるように、両性具有は性に関する社会通念を頭から否
定するわけですが、しかし一方で両性具有という(完成さ
れた、確固とした)立場をうちたてることにもなるように
思われます。社会通念を否定することは、また新たな社会
通念を産出する契機にもなるのではないでしょうか。しか
し、ベルメールがそうした両性具有の像から離れ、機関銃
を作り出したのは、男らしさ、女らしさというものを脱臼
させる(機関銃に付与される攻撃性という男らしさはイメ
ージでしかなく、機関銃という単語が女性名詞であること
もまた本質的・内在的なものではない)ことにあるのでは
ないかと考えています。社会通念を攻撃するというよりか
は、空虚化させるというか。前に、セクシュアリティを変
えるよりも(性転換で変えられるなど)、ジェンダーを変
えるほうがずっと難しいのではないかという話を聞いたこ
とがあるのですが、それはセクシュアリティが物質として
存在している一方で、ジェンダーはイメージでとらえどこ
ろがないからなのかなと。でも、とらえどころがないから
こそ、厄介な問題となっているのだと。読み違えていたら
すみません。
>shirimeさん
はじめまして。バタイユを研究している人がはてなに居た
らなと思っていたところでした。「低い唯物論」というの
は、理性によって抑圧された(しかし、非理性によって高
められる)物質的なものということなのかな。そうだとす
ると、宗教性ではないにせよ、理性によって守られた規則
を破るという禁忌の感覚は強いのでしょうか。理性に対抗
するということならば、バタイユアルトーとに共有する
部分があるようにも思われますが、それとも、アルトー
例えば理性の存在それ自体を疑問視しているのかな。
やっとこさ、担当箇所の和訳(19ページ分)が終わった。
本はCarol Armstrongの"Scenes in a Library"で、タルボ
ットの『自然の鉛筆』に関する章の後半部分を担当。「写
真を読む」という自分の関心のまさに核心をつく本である
が、そこで述べられている「読者」という単語が、タルボ
ットが想定あるいは限定している範囲と本当に対応してい
るかは怪しく、「自然の鉛筆」の半分以上が寄贈という形
態をとっていることや、読者層は本当に一般の読者なのだ
ろうか、そうではなくて科学者や貴族なのではないのかと
いう問題もあって、まずは上記のことを調べる必要を感じ
た。タルボットにおける「読者」「細部」とバルトのそれ
とを比較してみたい。
原点講読はNoel Carrollの"Art,Practice,and Narrative"
という論文の紹介。「芸術とは何か」に関する問題を扱っ
たものであるが、結局のところ芸術と非芸術を分かつもの
は何かということには不十分なままであった。「反復、拡
張、拒否」という戦略によって、オブジェクトが芸術の仲
間入りをすると述べるのだが、その戦略に則っても芸術に
なりえないものもまたたくさんあるわけで、それに対して
どう説明できるのかという問題がある。上記の戦略は既存
の(事実関係の)芸術ネットワークが自明のものとしてあ
って初めて成り立つ議論であり、芸術とは何かという問題
とはまた別である。