今日、親知らずを抜いた。でも親知らずというネーミングは上手いな。と一人感心してた。
昨日のダゲレオタイプとカロタイプの話だが、カロタイプがしばしば現在のネガフィルムに結びつけられ、そのネガフィルムが今度はデジタル写真に比較されるとき、ネガフィルムがなかなか消去できないのに対し、デジタルはすぐに消去できるということが主張される(特に飯沢耕太郎)が、タルボットはカロタイプに対して、「もろさ」ということを強調していることは忘れてはならない。そもそも、飯沢の主張では、デジタル以前の写真に対しては紙やフィルムの物質に注目しているが、例えばフィルムは一瞬でも感光してしまえばそれで像は「消去」されてしまうのではないだろうか。物質としての紙やフィルムを消去するにはいろいろと大変だが、像を消すことは簡単である。そして、初期の写真技術の改良は、どのようにして消え去る像を固定するか、感光しないようにするにはどういう構造にすればいいのか、ということが中心だったのではないか。だとすると、写真のそうした「消去性」がある意味隠蔽されることになるきっかけとなったのが、コダックの出現ではないだろうか。イーストマン社は1888年に、コダックカメラを発売したときに、現像・プリントも請け負うという触れ込みで購買層にアピールした。この瞬間、現像・プリントすることが完全に自身の手を離れたのである。現在はほとんどの人がラボに現像・プリントを注文している。そう考えると、カロタイプとロール・フィルム(コダックが採用した様式)との間には大きな断絶が存在している。もちろん、デジタルとカロタイプを同一視しているわけでは全くないが、こうした流れを無視して、消去性ということは分析できなのではないかと。
飯沢耕太郎の主張は「美術手帖6月号」の中の「デジグラフィは写真家を殺すのか」による。