Margaret Olin, “Touching Photographs: Roland Barthes’s “Mistaken” Identification” in Representations 80, Fall 2002, p.90-118


マーガレット・オーリン 「 心に触れる写真:ロラン・バルトの「誤」認 」

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 マーガレット・オーリンは冒頭で、写真の本質に関する一般に普及した理論に従えば、写真はその指示対象と非常に密接な関係を享受しているということになるが、こうした写真の見方は等しく重要な別の要素、すなわち画像と対象とが同一のものであるという証明の瞬間を無視していると述べている。そこで、オーリンはロラン・バルトの『明るい部屋』に着目する。
 バルトは『明るい部屋』の中で、写真の、その指示対象との結びつきを基本に、写真の受容理論を2つに分けた。オーリンはその一つとして、写真のインデックス的性質を挙げる。彼女は、バルトの「イメージの修辞学」において、写真のインデックス的な性質が神話制作に果たす役割を次のように述べている。

 広告が描写あるいは描画されるというよりはむしろ写真に撮影されたという事実によって、これらの文化的、国家的連想は直接的に、そして自然に現れてくるということが意味される。p.100

 それは、つまり以下のことが念頭にあるからである。

 その項目のインデックス的再現が存在するためには、すでにその項目がそこに存在していなければならないので、インデックスはイコンよりも先天的に説得的であると考えられる。p.100

 更にもう一つ、オーリンは写真のインデックス的性質のほかに、「それはかつてあった」という写真の性質にも注目する。

 神話を保証するように思われるインデックスの代わりに、『明るい部屋』は写真の「それはかつてあった」について詳細に思案する。p.101

 『明るい部屋』の、こうした2つの部分への分割は知性と感情との間の分断、すなわち学問的なものと個人的なものとの対立を示唆するように思われる。しかし、実際のところは両者とも個人的なものである。『明るい部屋』の第1部で、バルトは自身にとって「存在」する写真の分析を己の写真論の基礎とするために、プンクトゥムとストゥディウムという用語を使用する。
 そこで、オーリンは、『明るい部屋』において用いられている写真図版に着目する。彼女は『明るい部屋』の第1部に掲載されているジェームズ・ヴァン・ダー・ジー撮影の家族写真とバルトの写真解説の間に存在するある不自然さに注目し、そこから持論を展開する。バルトによれば、ヴァン・ダー・ジーの写真において、最初にプンクトゥムだと思われたのは女性の腰にまかれたベルトであり、次には革紐でくくった靴であり、最終的には金の鎖の細い組紐ということになった。ここで注意すべきは、バルトが最終的にプンクトゥムに行き着いたのは、写真を見ていなかったときということである。

 しかし、心をかき乱す写真がなくなって、バルトは第三の細部を見出すことになる。その細部はヴァン・ダー・ジーによるこの写真をプンクトゥムのもう一つの特性の主要な例とする。それは、(バルトはこのつながりを明示していないが、ロマン主義的詩人の経験のように)もうすでにそこには存在していないイメージが「私の内部で機能する」ときに真の重要性が明確化される、その仕方を説明する。 p.104

 ただし、この第三の細部には不自然な部分があるとオーリンは指摘する。彼女は続けて、以下のように述べる。

 バルトが見ていなかったときにやっと、この首飾りをプンクトゥムだと認識できた理由は、彼の選び出した細部、すなわち金の鎖の細い組紐がそこには存在していないからである。p.105

 というのも、ヴァン・ダー・ジーの写真を再度よく見てみると、女性が首にかけているものは金の鎖の細い組紐ではなく、真珠のネックレスである。この不自然さこそが、バルトの「誤り」であるのだが、ではなぜこのような誤りが起こってしまったのか。次に、オーリンはこの原因を探ることになる。
 そこで、彼女は『明るい部屋』ではなく、『ロラン・バルトによるロラン・バルト』に用いられている写真図版の一つに注目する。この写真には、バルトの叔母であるアリスを含め三人が写っている。このアリスの写真とヴァン・ダー・ジーの写真との類似点として、人物配置が類似していること、更に二人の女性が首飾りを着けていることが挙げられる。加えて、オーリンがアリスの写真で注目しているのは、バルトがヴァン・ダー・ジーの写真において、プンクトゥムと考えていたベルトつきの靴や首飾りを着けていた黒人女性と同じ配置にいるのが叔母のアリスということである。バルトは『明るい部屋』の中で、ヴァン・ダー・ジーの写真について述べるとき、まさにこの叔母のアリスの話を出していたのである*。

*参考
 私はその後、真のプンクトゥムは彼女が首にかけている短い首飾りである、ということを理解するようになった。というのも(おそらく)、私の家族の一員が首にかけているのを、私がいつも目にしてきたのは、これと同じ首飾り(金の鎖の細い組紐)だったからである。その首飾りは、本人が亡くなったいま、家族の古い装身具を入れておく宝石箱にしまいこまれたままになっている(この父の妹は生涯結婚せず、オールドミスとして自分の母親のもとで暮らしていたので、私はその田舎暮らしのわびしさを思い、いつも心を痛めていた)。
ロラン・バルト 花輪光訳 『明るい部屋』みすず書房 1985年 p.66

 こうした状況証拠をもとに、オーリンはヴァン・ダー・ジーの写真のところでバルトが述べている首飾りは別の写真、すなわち叔母アリスの写っている写真のほうであり、彼は誤って同定していたとみている。バルトは、実際の人間の靴や首飾りではなく、写真の配置によってその同定を行なっていたと思われる。ここで重要なことは、プンクトゥムにとって写真とその指示対象との関係は必ずしも重要ではないということである。

 彼の努力は、プンクトゥムの他の重要な面を明らかにしてくれる。プンクトゥムは配置かもしれない。プンクトゥムは忘れられるものなのかもしれない。プンクトゥムは異なる写真の中にあるのかもしれない。p.107

 そこで、オーリンは更に『明るい部屋』の第2部で語られる「温室の写真」にも注意を向ける。この「温室の写真」は、バルトの説明があるだけで、実際の写真は掲載されていない。そのことから、彼女は首飾りのときと同様に、異なる写真にその解決の糸口を求める。
 オーリンはまず、「温室の写真」が幼い頃の母と叔父の写真であることに着目し、『明るい部屋』の中で掲載されている1枚の家族写真を取り上げる。その家族写真には、2人の子供(女の子と男の子)とおじいさんが写されている。

 もしもバルトの母と叔父が写った温室の写真が無かったとすれば、ベンヤミンの記述をきっかけにバルトは「一族」の白鬚のおじいさんを除いた2人の子供の写真を再配置したのかもしれない。p.108

 以上のことを踏まえて、著者は次のように述べる。

 プンクトゥムとは、そこに存在しない細部であり、あるいはそこに存在しないと願う細部である。喪失に関するこの著作において、不在とは存在である。バルトが『明るい部屋』を捧げたジャン=ポール・サルトルの『想像力』におけるメンタルイメージのように、プンクトゥムとは「ある対象がまさにその存在のうちに不在であるような、ある仕方」であり、またその不在のうちに存在するようなものである。p.110

 オーリンは、更にバルトの温室の写真に関する記述に注目し、もう一つの細部を明らかにする。その細部とは、バルトの母親がしていた指の仕草である。この指の仕草は、「一族」の写真に写っている女の子もしているものである*。

*参考
 その写真は、ずいぶん昔のものだった。厚紙で表装されていたが、角がすり切れ、うすいセピア色に変色していて、幼い子供が二人、ぼんやりと写っていた。ガラス張りの天井をした「温室」のなかの、小さな木の橋のたもとに、二人は並んで立っていた。このとき(一八九八年)、母は五歳、母の兄は七歳だった。少年は橋の欄干に背をもたせ、そこに腕を乗せていた。少女は、その奥のほうにいて、もっと小さく、正面を向いて写っていた。写真屋が少女に向かって、《もっとよく見えるように、もうちょっと前に出て》、と言ったらしかった。少女は、子供がよくやるように、片手でもう一方の手の指を無器用につかみ、両手を前で組み合わせていた。
ロラン・バルト 花輪光訳 『明るい部屋』みすず書房 1985年 p.82

 加えて、オーリンは『ロラン・バルトによるロラン・バルト』に掲載されている幼い頃のロラン・バルトの写真が、まさに母親がしていたのと同じ仕草をしていることを強調し、以下のように述べている。

 写真の連鎖によって、バルトはイメージからイメージへと探求し、自分の母親としての自分自身を予期せず発見する。それはまさに、バルトが今際の際の母親を看病する間に彼の母親の母親役となっていたように。p.112

 オーリンは更に、バルトと叔母アリスの類似性も指摘する。『ロラン・バルトによるロラン・バルト』に掲載されている幼少の頃の叔母アリスの写真もまた、指をいじくる仕草が写されている。また、バルトと叔母アリスは共に、結婚せずに母親につきっきりであったという類似性も彼女は強調している。
 以上のように、温室の写真と別の写真との類似性、言い換えればプンクトゥムの置き換えは写真の本質に大きな影響を与える。

 写真のインデックス的な力などもうない。写真が写されたとき、カメラの前に何かあるという事実はもはや無批判に写真の力の源とすることはできない。p.112

 ただし、オーリンは温室の写真が実際に存在するかどうかは『明るい部屋』の読者にとってそれほど問題ではなく、ヴァン・ダー・ジーの写真のネックレスと同様、存在していなくても十分力強い写真であると述べている。しかし、写真のインデックス性の理論にとっては、そのことは問題になる。

 これらのイメージが存在しないという可能性を取り上げ、それらが存在するかどうかはそれほど問題ではないということを理解することは、この基本となる概念[=インデックス性]を疑問に付すということである。p.112

 以上のように、写真の強大な力がカメラの前にあるものから派生するのでないとしたら、その力は他のところに宿っているということになる。それを見つけるために、オーリンはこれらの写真が作り出す同一化と同定のネットワークを探求する。
 バルトの同一化と同定のネットワークは叔母や母親といった親族だけでなく、ヴァン・ダー・ジーの写真に出てくる黒人の乳母にも到る。バルトのこうした人々への「同一化と同定 アイデンティフィケーション」は複数の写真を同一化する関係の鎖へと結びつける。

 ヴァン・ダー・ジーのモデルをバルトの家族の一員とするために、バルトは語り部による同一化を受けやすい周縁的なクラスの代表としての地位以外のあらゆるもののアイデンティティを空虚にした。p.114

 『明るい部屋』に掲載されている25枚の写真もまた、以上のように空虚にすることで同一化を可能にするような、そうしたネットワークの重要な対象であったのだろうとオーリンは主張する。
 以上、オーリンは写真の性質としてのアイデンティフィケーションのネットワークを強調してきたが、それは写真のインデックス性の在り方にも大きな影響を及ぼしている。

 我々はそれら[=人々との関係]の存在を誤って認証するだけでなく、それらと誤って同一化するとも言えるのかもしれない。『明るい部屋』の一つの読みが示唆するのは、結果的に写真の最も重要なインデックス的な力とは写真とその主題との関係にあるのではなく、写真とその鑑賞者あるいは使用者との関係、すなわち私が「行為的インデックス」あるいは「同一化のインデックス」と呼ぼうとしているものにあるのかもしれないということである。p.114-115

 従来、プンクトゥムとは写真に写されていた対象そのものとのインデックス的な一対一対応のものであると考えられてきたが、オーリンは上記のように述べることで、プンクトゥムとは同一化の過程で置き換えが起こりうる、従って誤りもするような流動的なものであることを指摘している。
 オーリンは最後に、バルトは写真とはそれ自体一体何であるのか、すなわち写真の真実とは何であるのかを最後まで求めていたが、「それ自体」や「真実」といったものは単なる外部的な保証であって、多くの関係と同様、本来インデックス的な力といった保証など全く存在しないのであると述べて、この論文を終えている。

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紹介者評:
オーリンの議論で最も注目すべき点は、バルトの『明るい部屋』の中で何とも扱いにくい2つの問題を非常に説得的に解答している点である。その二つの問題とは「第一部と第二部の断絶」と「サルトルの『想像力の問題』への献辞」である。
前者に関して。上記の要約でも書いているように、オーリンは第一部と第二部をどちらも「個人的」とし、両者の写真図版とそれに随伴するテキストとを精緻に分析して、それらが共に「誤認」であることを主張する。ここで気をつけるべきことは、オーリンは写真のインデックスを否定しているわけではないということである。そうではなくて、インデックスの力を担保としたプンクトゥムの過大な取り扱いを諌めているのである。
後者に関して。インデックスの力に疑問符をつけることで、オーリンは写真とその主題との関係から、写真と鑑賞者との関係に論点を移すことになる。そうすることで、サルトルの『想像力の問題』を生かすことができる。
問題点。オーリンは最終的に「行為的インデックス」「同一化のインデックス」という概念を提出するが、特に後者の概念「同一化のインデックス」はもう少し説明が欲しい。「行為的インデックス」というのはおそらく言語行為論的な意味合いを含んでおり、写真とその対象との固定的な一対一対応ではなく、コンテクストによって対応関係が様々に変わり得るというのは非常に使える概念だと思われる。しかし、「同一化のインデックス」を考える場合、『明るい部屋』に掲載されている写真の殆どが人物の写されている写真であることには注意を向けなければならないだろう。また、オーリンは『明るい部屋』の写真に対する同一化のネットワークの一例として、『ロラン・バルトによるロラン・バルト』に掲載されている写真を挙げていたが、後者の写真はバルトの家族アルバムの写真であり、同一化のネットワークにもある種の「偏差」があるように思われる。バルトの写真選択の「偏り」を指摘することで、彼の想定している「プンクトゥム」をもう少し明らかにすることができるかもしれない。